【第16戦 カートイワークスグランプリ】
読者の皆さんはじめまして。村田博章と申します。この度、人気の飛行機モデラー林周市氏よりこのページを引き継ぐ事になりました。宜しくお願いします。
ご紹介頂いた当時、持病による体調不良でカートイワークスさんには大変長らくお待たせをしてしまい、この場を借りてお詫びを申し上げると共に、この機会を提供して下さった関係各位に対し御礼申し上げます。
さて、まず自己紹介と模型の遍歴を紹介させて頂きます。自分は昭和36年生まれの今年還暦を迎えるロートルモデラーで、主たるジャンルは艦船です。一時期仕事で名古屋暮らしはありましたが、生まれも育ちも現住所も愛知県豊橋市の東の外れ静岡県との県境に近い所です。田舎ですが東海道筋でとても便利のいい環境がとても気に入っています。
地元に戻って30年経ちますが毎日往復3.5時間の通勤も何のその、帰宅後に毎日せっせと模型に時間を費やす日常を楽しんでいます。本業は珈琲焙煎士をしていまして毎日溢れる香りの中で商品作りに勤しんでいます。
自分は些か内気ですが、あっさりした所と頑固な所が入り交じり決めたことは貫く性格です。また、気に入ったものは何でも1番から集めたがる悪癖と、人と同じものが好きになれないへそ曲がりな所は今も変わらず模型の活動にも息づいています。
●模型との出会い
自分と模型の出会いはハッキリ覚えていませんが、近所のお兄さん達がやっていたラジコンのボートだったような気がします。とは言え、5歳やそこらで興味は有ってもそちらの方へ趣味として進めるわけも無く、自然と身近なおもちゃや折り紙などの紙細工などに興味は移っていきました。
その頃はウルトラマンが放送開始したばかりのリアルな世代で、ゴジラシリーズやガメラ共々怪獣が大好きな幼稚園時代を過ごします。勿論プラモも始めた頃で怪獣や動くものが主でしたね。小学校へ上がると少しずつ趣味も変化していきますが、授業参観で気をよくした父が買ってくれた鉄道模型がとても気に入り、ちょっとだけ深みに嵌まっていきました。
父は大正生まれで小学校を卒業後、鉄道省(現在のJR)に就職した根っからの鉄ちゃんでした。その影響もあり鉄道に興味を持つようになり、父親は旅行と言えば鉄道を使っていろんな所へ連れてってくれました。実は当時父は車の免許を持ってなかったんですけどね。
鉄道模型に嵌まったと言っても高価なものですから、小遣いを貯めては足回りパーツだけを買って車体はボール紙と木材を使ったスクラッチビルド。当然(7歳やそこらで大丈夫か?)ラッカー筆塗りの本格的なものでした。3年生になるとハンドスプレー(ただの噴霧器を模型用に活用したもの)を入手しスプレー塗装にステップアップします。
ハンドスプレーもベンチュリー管を加工して細かい霧が出るよう改造して使っていました。当時は子供向けの模型誌がたくさんあり、そのようなテクニックを何でも吸収していたんですね。兎に角ライトが点灯するもんだから運転はもっぱら夜灯りを消した暗闇で、ひたすら何時間も走る姿を眺めていたものでした。
では鉄道模型ファンの自分がどうして艦船へ進んだかというと、これまた父親の影響で、現役での兵役が陸軍であったにも拘わらず「在りし日の海軍艦艇」なる写真集を持っていまして、その写真集を眺めるのも自分にとっては日課となっていたのです。その写真集に掲載されている軍艦の美しさや力強さに魅了されていったのは言うまでもなく、木材を使って鉈や鋸、彫刻刀を駆使したスクラッチの軍艦を自由気ままに作るようになりました。因みに我が家の風呂は五右衛門風呂で薪に使う木材は豊富にありました。
気ままに作る軍艦は、勿論船底なんて無い洋上模型でした。丁度その頃静岡模型協同組合から組合事業のウォーターラインシリーズ(以後WLS)がリリースされます。船底を見たことのない自分がこれまで作ってきた木製の軍艦も洋上模型、置くだけで浮かんで見える洋上模型の製品が出現した事に感動したのを覚えています。当時は海面下に沈んでいる部分こそが船であり見えてる部分はただの箱という認識で、船底まで作り込まれた「フルハルモデル」が艦船模型の主であり、洋上模型は蔑視されていた時代でもありました。その非主流の洋上模型をシリーズとして製品化してくれたWLSの感動が艦船模型の世界へ自分を導いたと言えるでしょう。
●サークル活動
その後もWLSの製作は続けていましたがAFVや軍用機にも興味が湧き雑食モデラーを長く続けていました。転機は30年程前訪れます。雑食モデラーサークルの一員として参加していた静岡ホビーショーモデラーズクラブ合同作品展では、自分たちの稚屈な作品が会場で全く目を引かない現実にちょっとだけ落ち込みました。
そのホビーショーも終わり翌週喫茶店での反省会での事です。メンバーと何とか目立つ方法は無いものかと話し合っていた時、雑多で統一感のない稚屈な作品を並べていても誰の目にも止まらんので、当時一番に人気が無かった艦船だけ展示すれば逆に目を引くかもとひらめいたのでした。所謂逆転の発想という奴です。展示方法も海戦など歴史をテーマにすれば模型ファンだけじゃ無く年齢層の高い人たちも見てくれるのではと方向を決定したのでした。
ハッキリ言えば作品を見せるのではなくテーマを見せる展示にする事で作品の出来不出来が帳消しになると言う事です。その時(平成5年5月)所属していた雑食モデラーサークルから独立して自分が代表として僅か3名で結成したのが「吃水線の会(きっすいせんのかい)」であり、現在「Waterliners NAVY700 吃水線の会」として静岡模型協同組合様から認められた実働40名ほどのサークルに成長し活動を続けています。尚、最初参加していた雑食モデラーサークルも「三河模型同好会COMKY」として現存しており静岡ホビーショーに参加し続けています。
合同展では毎年テーマを設け洋上模型や航空機を使った展示で歴史を紹介しています。始めた初期の頃は展示ブースの背面ボードに写真や海戦の推移などを紹介するパネルを貼って洋上模型を並べるだけでなく解説にも工夫をしていました。
そのパネルをじっと見入る年配の方や、使った写真の出所を尋ねてくる遺族会の方などが現れ、活動の方向性に間違ってなかったと自負している所です。現在では展示ブースも島型の大きなスペースを頂いていますので、展示自体をパノラマ的に配置して大型のパネルを組み合わせ塔型にしたものを目立つように置いてテーマをアピールしています。展示会ではテーマ性がハッキリしていることは重要なんですね。
●セミプロとしての活動
ざっと模型趣味のスタートから現在のサークル活動を紹介してきました。模型専門誌ライターとしての成り立ちを紹介します。
2001年に地元の模型仲間を通じ「スケールアヴィエーション誌」の作例が足らないから作品を使わせて欲しいと依頼がありました。機動部隊の艦上機を紹介するもので、同年ホビーショーのテーマで製作した爆装零戦を掲載することになったのです。
それをきっかけにコネクションが出来てからはモデルグラフィックス誌(以後MG誌)の艦船特集で外国艦担当として使って貰うようになります。その後同誌から独立した艦船専門の別冊「NAVY YARD誌」(以後NY誌)では創刊前から誌面内容選定等に関わりを持ちながら創刊2号より外国艦の不定期連載ページを頂く様になり現在に至ります。
自分の雑誌での立ち位置は林氏や柳井氏など異なり精緻な作品を以て読者に訴えかけるのではなく、どこにでも有りそうなプラキットを素組みしただけのような作品を使って実艦を紹介するをコンセプトにしています。従ってディテールアップというものは殆ど施しませんから目を引く作品ではないんです。
その辺は30年前と何ら変わっていません。ただ、前置きでも書きましたが兎に角、人と同じものが好きでない性格なので、キットのままではなく年代を変えたり、同型艦に置き換えたりと毎回何かしら変化球を投じています。勿論実艦を紹介する上でキットに恵まれてない艦もありますから、必要なら図面等の資料さえに入手できればフルスクラッチもへっちゃらです。
基本キットのままが嫌いなので常に手を入れるわけですが、有名メーカーのプラキットでも海外の個人レベルのレジンキャストキットでも優れた所と今ひとつの所はあるわけで、外観に関しては自分の気に入るレベルまで修正は加えます。ただ、塗装してしまうとプラキットを素組みしたものにしか見えず、読者からは目を引く作品とは写らないんですよね。
雑誌の仕事でもホビーショーのお題を含めたプライベートの作品でも共通なのが、WLSという小スケールのフィールドではちょっと距離を置いて見た時の姿に重きを置いています。例えば港の岸壁に立って沖留めの船舶を見た時目に入る姿です。船体ラインの不連続な美しさ、機能的に配置された上構や軍艦であれば武装配置と、その艦を見えたように再現したいと思っています。
実際は有って当たり前の手摺りや張り線は一歩下がると殆ど見えません。敢えてそれらを取り付けない事が艦自体の美しい姿を見せる秘訣と思っています。ただ、遠くの艦を見た時トラス構造やレーダー等の枠は透けて見えない事も多々あります。それらを全て省略してしまうと艦自体成り立たなくなりますので、ピンポイントでエッチングパーツなどを使って再現し、その部分の密度を高めることはあります。
中々伝わりにくい所ではありますが、手を入れる部分でも敢えて板厚をキットに合わて厚めにしたりして素組を装っていますが、フルスクラッチの時もあればベースキットが跡形もないほど改修することもありますので、形作られたシルエットを読み取って頂けるととても嬉しいです。
普段の作品作りでは、図面や写真を眺め妄想して立体を思い浮かべ、何時も見るフルカラーの夢に出てきた姿や色が重なり合った時一気に手が進むんです。そんな特技?を用いながらシルエットモデラーとしてこれからも続けていきたいと思います。
これまでMG誌・NY誌で脇役ながら20年程執筆してきましたが、一昨年念願の単行本「模型で見るアメリカ空母の全て」を出版することが出来ました。これはアメリカ航空母艦の魅力を伝えたくて会のメンバーでもある遠藤氏と協力して模型を使って実艦を紹介・解説する連載「US Aircraft Carrier 1 to 8」がベースになった本です。もしご興味があれば手にとって頂けると幸いです。他に2冊ほどの単行本では補佐ではありますが作品を提供して実艦の紹介・解説を執筆しています。
●カーモデラーとして
模型歴や艦船模型の事はこの位にして本題のカーモデルについて話を変えます。
自分は小学校3年生まで自転車にすら乗れず行動範囲の狭い子供でした。ただ自宅の前が国道1号線であった事や東海道本線の駅が徒歩10分の所にある好立地は後々模型趣味にとても大きな影響をもたらすことになります。
先程紹介したように父が免許を取ったのが遅く運転することが好きでなかったため、車は買ったのにドライブに連れて行って貰ったことがありませんでした。父より早く免許を取っていた母も殆どペーパードライバーで、なんで車なんて買ったのかなと言う感じでした。幸い車好きの叔父がよくドライブに連れて行ってくれたのでとても嬉しかったです。
実際目の前の道路が国道1号線で信号交差点であったために、騒音と煤煙そして埃の凄さは普通では耐えられない生活環境です。それも慣れてくると静かな所では寝れなくなるんですよね。そんな住環境でしたがなんと言っても国1ですからいろんな車が通るんですよ。田舎ですから高級外車やスーパーカーはさすがに通りませんが、様々な国産車を見ることが出来ました。
ナンバープレートの種別(00~99)も目の前の信号で停車する度、図鑑を見ながら覚えましたね。また、目の前を通る様々な車の中で1番印象的だったのは、ウルトラセブン放映終了から1年ほどした週末の日中、何とポインター号がうちの前を自力回送してるのに遭遇し、信号待ちで目の前に停車したもんだからとても興奮しましたね。
さすがに運転していたのはダンやアンヌではありませんでしたが、ユニフォームくらい着ていて欲しかったなあと子供心に思いました。
現実は父親の運転嫌いの為か、乗用車に余り興味が湧かなくてメーカーや形が色々あるなあ程度の感覚でした。さすがに目の前が幹線道路であるためトラックの量は半端ではなかったのですが、そこは変わり者の本領発揮でトラックの種類もさることながらキャビンのカラーリングに興味が行きました。
何しろトミカのミニカーも10台ほど持ってましたがトラック類(働く車)の方が多かったです。小学校高学年になった頃夏休みの工作で動くおもちゃの課題があり、幼なじみと共に工作キットを使った車を競作しました。友人は勿論高速ギアのキットを使ったスポーツカーを作り始めましたが、自分は低速ギアのキットを使ってトレーラーを作り始めました。
キャビンは気に入っていた日野のハイデッキタイプを選び、カラーリングは近所の運送会社の金太郎塗りを選びました。リアはダブルの2軸でタイヤが10個も必要でしたからお金も掛かりましたが、何よりキャビンをスクラッチしようとしてたので当時の力量ではとても日野のハイデッカーにはならず結局ただの箱になってしまったことが悔しかったです。まあ、何から何まで変わってますよね。
自分は兎に角チビだったので中学に入ってからは運動部に入って体作りに専念しようと模型からは少し離れかけましたが、父の写真集に感化された軍艦に興味が強く年に何作はWLSを作っては地元のおもちゃ屋でのコンテストに出したりしていましたのでカーモデルには余り積極的でなかったのかな。因みにコンテストの成績は意外と優秀で4回の出品で優勝2回、2位1回とメーカー賞1回でした。所詮おもちゃ屋ですからレベルは低かったですが。
とは言うものの、自分にとってカーモデルを継続的に作るようになったのは、タミヤが1/24スポーツカーシリーズを始めた頃のモーターライズが最初と言えます。ポルシェ935やBMW320i等が続けて出た頃です。田舎ですから中々舗装した広い駐車場みたいな所もなくもっぱら公道で走らせていました。
夢中で走らせていたにも拘わらず事故にも遭わず皆楽しんでましたね。たま~に通る車にポルシェが轢かれそうになりましたけれど。中学生でしたがボディーは真面目に塗装して綺麗に仕上げていました。それを公道で走らせるんですから今考えるとめちゃくちゃですよね。まだまだ戦車も車もモーターライズが幅を利かせていた「動いてなんぼ」の時代でした。
そんなメチャクチャなカーモデルライフも高校に進学するとラジコンへシフトします。最初はエンジンバギーでした。ただ、当時の自分の知識や技術ではエンジンをまともに慣らして動かすことが出来ず、早々に諦めて電動カーへ乗り変えます。丁度その頃タミヤサーキットが出来て電動カーが急速に発展した時期でしたから、地元の模型店が同じく電動カー用のサーキットを開業したんです。
そのサーキットへ足しげく通ったのですが当時の電動ラジコンカーはウォールにヒットすると必ずと言っていいくらいフロントアップライトが折れました。そんな出費がサーキット通いを終わらせてしまったんですね。一緒に通っていた同級生も時を同じくして撤退してしまいました。そこで見つけ出したのが自転車で10分程度で行ける動物園の駐車場でした。
勿論閉園後の夕方ですが、100mは優にある直線が魅力で毎日のように通ったものです。そこにはウォールも無くアップライトを折ることも激減してとても楽しめましたね。ただ、広すぎて電波が届かなくなって場外へすっ飛んでいくことはちょくちょくありました。唯一の欠点というと日が長い夏場に限られることでしょうか。その為か結局走らせる機会が限定されることでオンロードカーから撤退したのは言うまでもありません。
そして次にはまったのが電動バギー及びラリーカーでした。既にモータースポーツの影響が出始めておりカラーリングはタバコカラーでしたね。ロスマンズ、マールボロ、キャメルなど当時強かったカラーリングを纏っていたのは言うまでもありません。まあ、その熱も受験を控えて中断(事実上の消滅)と相成りました。
大学では鉄道研究会に所属し模型班の班長として鉄道模型にシフトしており当初は会の活動に没頭していました。ただ、年頃でしょうか乗用車やバイクにも興味が湧いてきていた最中、クラスメイトから乗っている車の模型を作ってくれないかと頼まれたのを機に(セリカリフトバックを2台とギャランGTOを1台)4輪の市販車を作るようになりましたね。
その後自動二輪の免許も取得し2輪車にも興味が高まっていたので1/12のバイクも結構作りました。その頃はモータースポーツをよく知らなくて車もバイクも作るのは市販車中心でした。尚、今年に入ってお世話になっているお寺の住職から、若い頃乗っていたセドリックG.T.を作ってくれないかとキットを渡されてしまったので引き受けました。市販車モデルはおよそ40年振りでしたが、結構綺麗にストレス無く出来上がり住職には喜んで貰えました。
●モータースポーツとの出会い
時は遡りますが1978,9年頃だったと思います。週末テレビをつけたら珍しく4輪のレースを放映していました。当時はどんなカテゴリーなのか全く知りませんでしたが、どうやらF1だったようでした。勿論どこのグランプリかも知りませんがトップを快走する黒い車がコーナーでシフトミスを犯しコースアウトするシーンを鮮明に覚えています。
知識もなく散漫な実況でしたのでハッキリしませんが、コースアウトしたのはロータスのマリオ・アンドレッティーだと思います。その頃ロータスは強かったんですよね。当時のサーキットは今みたいに整備されていないので、コース外はただの砂利や芝(?)等でバリアは藁を束ねたような粗末なものでしたね。
こんな僅かなカーレースの記憶が頭の片隅に残っていたんですが、本屋へ行けばモータースポーツの雑誌もたくさん発行されるようになり、2輪のレースの情報も大量に入ってくるようになりました。そんな中、同い年であるフレディー・スペンサーの活躍を知り、最年少チャンピオンになったことをきっかけに2輪の世界グランプリにも興味が深まりました。
既に1/12のバイクプラモには手を出していたので、シリーズにスペンサーやロバーツのレーサーがキット化されると直ぐに作ったものです。4輪はまだ先になりますが2輪のプラキットはもっぱらレーサーに絞られてきました。雑誌やプラキットがたくさん出ることで知識も豊富になり、1980年頃から2000年頃まではレーサーのバイク、ライダーやチームのこともよく覚えましたね。また、鈴鹿へは8耐を4回ほど観戦に行きました。当時はホンダがとても強かった時代でした。
そしていよいよ1987年鈴鹿でF1が開催されることが決まり、テレビの放映も決まったことで全てのグランプリを見ることが叶い、かつての記憶(アンドレッティーのコースアウト)が蘇りF1マイブームが到来するわけです。その頃は仕事の関係で名古屋に暮らしていまして環境が整備できず模型製作からは離れていましたが、離れている間資料やキット集めに暇と資金を使っていました。
今でもそれらは貴重な財産になっています。名古屋暮らしも6年ほど経って環境整備が整った最初に手がけたのが1/24のフェラーリF1でした。艦船や軍用機でなかったのが不思議に思います。
地元では毎年秋に合同展示会を開催しており参加サークルだけでなく有志の臨時ユニットも登場します。自分は「吃水線の会」として艦船も出品しますが、飛行機のサークルの一員として飛行機も出品します。
他にはカーモデルのサークルにも声をかけてモータースポーツの臨時ユニット「東三河モータースポーツ評議会」を立ち上げ毎年テーマを設けて展示しています。因みに今年の秋も中止と決まっておりますが、テーマは「フォードVSフェラーリ」となっています。フォードまたはフェラーリのエンジン(パワーユニット)を搭載したオンロードレーサーです。フォーミュラでも箱車でも構いません。と言った具合に目標を決めて毎年1作以上はモータースポーツを作ると言うカーモデルライフを現在は過ごしています。
●地元への帰還とコレクションの拡大
30歳の頃名古屋から地元へ帰還したんですが、丁度「吃水線の会」を立ち上げたばかりで艦船模型以外手が出せない状況でした。ですからモータースポーツ関連の模型はF1とGP500(MotoGP)に絞って兎に角集めるのに集中していました。2000年頃まではキットとデカールを出たら買いの状態で、皆さんが罪だと仰る何倍も未開封キットを積み上げることになりました。
それら積み上がった在庫は今では劣化したデカールを買い直す(社外の値が張る奴)のに大忙しで、とても金食い虫になっています。とは言え、レーシングカーはデカールが命ですから致し方有りません。
マリオ(アンドレッティー)にそそのかされたF1は集める病が出てしまい、自分が生まれた1961年からコンストラクターチャンピオンシップ1位から3位とドライバーチャンピオンの車のキットを集めるようになりました。特にドライバーチャンピオンマシンは何としても手に入れたい一心で、近年はオークションにも手を出し95%程はコレクション出来ています。
F1のキットもブームが冷めつつある1990年辺りを区切りにプラキットが出てこなくなりました。仕方なくレジンキット比率が上がるわけですが、2000年で一度自分で区切りをつけることにしました。その後フジミやエブロの参戦でプラキットにも活気が戻ってきたので病気が再発してしまい2001年以降にも遡って集め出す羽目になり現在に至ります。
近年はプラキットが出ることも減ってしまい、逆に3Dプリントを駆使した高価なキットが毎年2,3点出るのみですがどれも楽しみにしています。でも2000年で区切りをつけてコレクションを止めてしまった為に再開してから収集の難易度が増し資金も多く要るようになってしまいました。やはり継続は力ですね。
一昨年トヨタがルマンを制した記念に1/24キットとしては10数年ぶりとなるTS050を買いました。そしてMAZDA 787Bが再販になって早速購入。そうこうしているうちにルマン熱が急上昇してしまい、ポルシェ、ザウバー・メルセデス、ジャガー、ランチャ、プジョー、トヨタ、日産等Cカー時代のルマン車両は20台にもなってしまいました。
その後箱車も集めだしツーリングカーやスーパーGTものも合わせると50台程に膨れあがっています。勿論F1は継続して集めていますので、現状コレクションキットの数ではモータースポーツ関連が1番多くなってしまいましたね。
●実車について
自分は原付の免許こそ高校卒業して程なく取りましたが、自動二輪も普通車も大学の中途でしたし、父が運転嫌いでしたからさほど四輪には強い関心がありませんでした。二輪の方は免許とって程なくして大学のクラスメイトから乗ってない車検切れの400ccがあるので引き取りに来てくれれば無償で譲るよと声をかけてもらいました。
別段親しかったわけでもなかったけど実家が近かったこともあり時々会話する程度の仲でしたので、びっくりしましたけど遠慮無くって所でしょうか。貰ったバイクはホンダのCB400NホークⅢというヨーロピアンスポーツで、CBX400Fが出るまでホンダの中型ではフラッグシップだった車です。2気筒OHCで独特な音でしたが意外とパワーもあり乗りやすいバイクでしたね。
それに乗って8耐等を観に行ったりしているうちにホンダ車のファンになり、以降買った新車は全てホンダ車でした。親しい友人が次々と限定解除する中、社会人になって時間も取れず結局中免止まり。750や1000ccをかっ飛ばす友人について行くためにはもう2サイクルしかないと、発表と同時にNS400Rを予約したのでした。
その後はレーサーレプリカに2台乗り継ぎましたが、いよいよ体がキツくなってきたので普通のツアラーへ乗り換えました。やはり発表直ぐに予約を入れたCB400SFで、東三河の納車1号車となりました。その後二輪はCB400SFを8年程乗りまして最後といたしました。
会社での立場もあり怪我も出来ませんから致し方有りません。でも暫くは手放さずに車庫で保管してありましたが、さすがにもう乗らないだろうとミニバンを買う時売却しました。CB400SFは比較的人気があったのか結構高く引き取って貰いました。
さて四輪はと言いますと、父の運転嫌いから自分が免許を取った頃はうちに車はありませんでした。ただ、父は免許を取った自分を運転手代わりにしようと思ったのか、急に車を買うと言い出したのです。
たまたま母の従兄弟がホンダのディーラーを営んでおり自然とホンダ車を選ぶ事になり、そこから四輪もホンダ車と決まっていったのです。2代目アコードセダンに始まり初代インスパイア、国産に戻ったアコードワゴン、3代目オデッセイと乗り継ぎ、現在5代目オデッセイが4年目に入った所です。
エンジンフィールの良さが心地よく乗り継いで来たわけですが、現在はモーターで走ってますね。今後エンジン車が無くなっていくホンダにちょっと寂しい気もしますが時代の流れで仕方ないと思います。ですから今年のF1はレッドブルにはホンダラストイヤーですから是非チャンピオンになって貰いたいです。
●後書き
自分の模型や車の趣味など紹介してまいりましたが、それぞれに拘りと悪癖が入り乱れた所が自分らしいのかなと思います。また、好きな物と好きなことに没頭できる事はとても幸せに思います。