こんにちは、カーモデルフィニッシャーの坂中善之です。先輩プロモデラーの北澤志朗さんから御紹介を頂きました。幼少時より現在に至るまでの拙い話ですが、中でも模型人生を決定付けたバンダイ1/20スケールの想い出をメインに、暫しお付き合い頂ければ幸甚に存じます。
1965年(昭和40年)北海道札幌市出身です。初めてプラモデルを組んだのが1970年、幼稚園生の時でした。おそらく1/24フォードGTのようなスポーツプロトのモデルだったように思います。車種よりも走行用に併せて買ってもらった単三電池、赤いナショナルハイトップ2本が印象に残っています。父に手伝ってもらい完成、勢いよく走り出したクルマを捕らえられずタンスに衝突、電池受け金具が根本から折損・走行不能となり修復の術もなくさめざめと泣いた記憶。
翌1971年「帰ってきたウルトラマン」放映開始と同時に小学生となりました。その年のクリスマス、母がプレゼントを買ってくれるとの事、何が良いか訊かれて即座に「車のプラモデル、1/20がイイ。」車種を問われ、キットの存在など知る由もないままに「クラウンがあれば…」とお願いしました。母がデパートへ出掛けて暫しのち、家に電話が。クラウンあるけど、何だか古い感じだよ、と言うので車種はお任せしました。それで母が買ってきてくれたのが、バンダイ1/20ブルーバードU1800SSS-E(ダットサン610型)。
当時は伸び盛りなプラモデルがノベルティグッズのような存在だったのでしょうか、新車発表のあと間もなくリリースされた新品のようでした。最上級グレードがモデル化されるのが常で、模型のエンジン周りも実車に倣い多少込み入った再現がされていて、メッキ部品どうしの接着には該当箇所のメッキを剥がす事も侭ならず、塗装も出来やしない状況で何とかカタチにはしたものの、シリーズの中でも特に技量を要する構成となっており、小学1年生には到底満足に組めるものではありませんでした。
それでも実車のイメージカラーであるブルーメタリックの成型色、小さなギヤを組み合わせてリアシート後方に駆動系を、トランクに電池とスイッチが収まる仕様が気に入っていました。このバンダイ1/20ブルーバードUこそが、今に至る模型人生の原点であるといえます。
箱の側面には、同じ1/20クーペ・シリーズのラインナップが載っていました。セリカGT、カペラGS、カローラSR、ホンダクーペ9、サニークーペGX、サバンナクーペGS II、ギャランGTO、そしてキャンピングトレーラー。いつの日か全部揃えてみたい、と夢見ておりました。
当時、母が「何だか古い感じ」と言っていたクラウンは今にして思うに、おそらく大滝1/20ハードトップSL(MS51)の事だったのでしょう。ボディ再現度に些か難がありますが、今となってはコチラのほうがより一層入手困難となっています。
バンダイ1/20 ホンダ1300クーペ9カスタム
翌1972年、従兄から何故か箱無しで中身だけの状態で紙袋に入ったバンダイサバンナGSIIをもらったのを皮切りに、1973年には別の従兄からも2代目コロナマークIIGSSや、組み立て済みのケンメリスカイラインGT-X、セリカGTなどを少しずつ譲り受け、完全に「バンダイチルドレン」としての洗礼を受けたのでありました。
同じ時期に従兄が私に影響を与えてくれたもう一つのアイテムが「切手」ですね。あの頃ブームでしたから。カタログで様々な種類の図案を眺めているだけで基本的には満足していました。毎月のお小遣いではプラモデルをひとつ買うのが精一杯でしたので。
それでも好きで揃えたのが1962〜74年の「第2次国立公園シリーズ」でした。当時はたいていのデパートに切手売り場があったものでしたが、毎回通うのも大変なので、よくお世話になったのが、カタログ巻末に集まっていた切手商の「通信販売」でした。
その頃にピアノを習っておりましたので、たまに懐かしくなって動画サイトでバイエル、ツェルニー、ブルグミュラー、ソナチネなどの曲を聴くと、あの頃集めていた美しい切手の図案まで思い出します。近年ではすっかり価値が下がってしまい、ゆうパック等に昔の記念切手が大量に貼られ消印が押された荷物を受け取る度に、何とも複雑な気分を味わうようになりました。
昔は模型店が小中学校の近所に位置していたものです。文房具店にもプラモデルが置いてあるのが当たり前で、コインゲーム等もあるお店は男子の社交場といった時代でした。未だスペースインベーダー登場前でしたので。
1976年(小学6年)当時、クラスの男子は私のような文化系のみならず、体育会系の子でもプラモデルを作るのが嗜みでした。そんな中、近所のおもちゃ屋さんのプラモ棚に、ひっそりとバンダイ1/20カペラロータリークーペGSが置いてあるのを発見。この頃は未だ「絶版」という概念は持っておりませんでしたが、特に「今買っておかないとヤバい」オーラがヒシヒシと感じられ、お店で羨望の眼差しを向けておりました。さらに同時期、別の文具店では同シリーズの別成型色のマークIIGSSが置いてあり、私は勿論両方欲しかったのですが、如何せん小市民につき、お小遣いがどちらか一台買える分しかない。どちらも欲しいから、と親に強請るのは良くない・・・と自制していました。
ニチモ1/20 コロナマークⅡ1900SL
私のみならず、先の体育会系君もバンダイのカーモデルに興味を持っていたので、文具店にマークIIGSSがある事を彼は知っていました。そこで私は泣く泣く二者択一、マークIIを諦め、おもちゃ屋さんへカペラを買いに行くことにしました。こうして、辛うじて一台残っていたカペラをゲット出来ました。私はカペラを完成させ、家の前の道路で走らせて遊んだりしましたが、マークIIを買って作った体育会系君は私ほどの模型に対する思い入れもなく、テキトーに完成していた事もあり、結局は彼の家の前でシンナーをかけてマッチで火を点けて「爆発ごっこ」と称して燃やして遊んでしまったのです。当時TVでよく観た刑事ドラマのカースタントの影響でしたね。それに付き合っていた私の胸中は複雑な思いでした。ホントはマークIIもオレがキチンと組んで、幸せにしてあげられたのに・・・!
それから2年位経ったでしょうか、中学生になっていたある日、そんな想い出の、カペラがあったおもちゃ屋さんが閉店してしまったのです。たまたま閉店作業を目撃した友人いわく、「K太郎のおじさん、泣きながらレジを壊してたよ。」…今となっては貴重なキットが多数あったそのお店は姿を消してしまったのです。
そして、同じくバンダイ1/20 ”Big Rotary” ルーチェハードトップとの出会いはほろ苦い想い出です。1970年代、プラモデルはおもちゃ屋さんのみならず、どこの文具店にも置いてありましたし、スーパーマーケット・公設小売市場にもありました。バンダイ1/20クーペ・シリーズ中の主要車種は、白成型と実車のイメージカラー、いわゆる「決めカラー」の2種類の色成型ボディパーツが出回っていました。小学生の自分としては、ボディの塗装は正直いって面倒だし、塗料も大して揃っておらず、「決めカラー」で成型されているほうのプラモを喜んで買っていました。
そんな中、1975〜76年頃から、プラモデルに付属する「デカール」が抜き取られるという事件が同時多発した時期があったのです。そのためか、私の自転車による行動半径に入っていたとあるスーパーマーケット「K」では、ある日突然、2階の模型売り場に警備員を2名も常駐させるようになっていたのです。よく行く馴染みのお店のおじさん・おばさんと違い、何だか物々しい警戒の中でプラモの中身を見るのは結構勇気が要る事でした。それでも勇気を振り絞って、Kスーパーの模型売り場へ行ったある日。おっ、タミヤ 1/12ロータス49がある、ナガノ1/20トヨタ2000GTが2台ある、あっ!バンダイルーチェGSIIだ!うわぁ〜中身見たい、チョット観させてもらいますよ・・・。
ほぉ、「決めカラー」の茶色掛かった朱色だ。フムフム・・・。・・・とそこに、いきなり『ゴツンッ!』エッ、い、痛えぇ〜!!☆…私の脳天に、警備員のゲンコツが無言で見舞われたのでした。ひ、ひでぇ・・・オレは行儀良く中身を見ていただけじゃないか。なんでだよ〜・・・。オレがデカールをギッパる(盗み取る)ようなヤツに見えるのかよぉ・・・。
何だか物凄いショックで、当時11歳の私は泣きそうな気持ちをコラえて、ルーチェを棚へ戻し、”2度とココで買い物するもんかっ!”と心に決め、Kスーパーを出たのでした。今思うに、その警備員はアルバイトの兄ちゃん的な若い人だったと思います。それにしてもイキナリ容疑者扱いでしたから・・・。
それから数年、Kスーパーは業績不振により閉店と相成りました。貴重なルーチェGSIIをゲット出来なかったのはクヤシイけれど、新聞でそのニュースを読んだ時の私は、心の中でガッツポーズしていました。あの時の悔しさ・無念さは44年経った今でも忘れはしません。なんたって巳年生まれは執念深いのだからね・・・。
バンダイ1/20 ルーチェ前期GSⅡと後期AP
中身を見ると、モーターライズ関係のパーツや、ダイキャスト化により不要となったサスペンションのパーツがゴッソリとランナーからオミットされていて、見ていて痛々しいほどスカスカで、その時、あれ程憧れたあのGSIIは、もう手に入らないんだ、もうモーター走行出来ないんだ・・・と悟ったのです。何だかもう、私までもが骨抜きにされたような気持ちでした。
・・・それから17年後の1994年(平成6年)春、画期的な個人売買雑誌「クアント」(ネコ・パブリッシング刊)創刊により、ほとんどあきらめていたルーチェGSIIの入手へと繋がっていったのです。現在のくされ縁、模型仲間の相棒との出会いがクアント誌を介してもたらされたのです。モデルカーズ誌とクアント誌。私の人生を変えた二大誌なのです。
ナガノ1/20 ケンメリスカイライン2000GT-X
小学校の修学旅行では洞爺湖へ行き、昭和新山へも訪れましたが、その時、土産物の売店にどういうわけか、改修前の貴重なバンダイ1/20ケンメリGT-Xが一台置いてあるのを発見、何故まさかこんなところに?と驚き衝撃でしたが、この場で買ってしまうと家族へのお土産が買えなくなってしまうので、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び我慢しました。そんな私が密かに悩んでいる間に、貴重なケンメリは他のクラスの男子に喜んで買われてしまいました。嗚呼・・・。
幼少時に触れた模型がモーターライズなりゼンマイ駆動なり、走行する前提で世に出たものであったが故に、模型道を今日まで続けて来られた感はあります。最初の経験が前輪がステアせず、完全ディスプレイモデルであったなら状況は異なっていたかもしれません。日本製の模型の良いところは、走る・曲がる・それと「光る」要素も取り入れていたのが大きいと思います。
日東科学1/24 ギャランGTO-MR (LED仕込み)
バンダイ1/20の中でもギャランGTOやマークIIGSS、ケンメリなどは別売りの豆球によりヘッドライト点灯可能となっており(まだムギ球という呼称以前の時期でした)、初めて「アフターサービス」を利用した1973年、静岡県清水市(当時)バンダイ模型へ豆球希望の旨、父に代筆してもらい200円切手を同封して郵送し、数日したのち待望の豆球が届きました。現在のムギ球より少しだけ大きめなサイズでした。
バンダイ1/20 ホンダアコードEX
その時に添えられていた「バンダイ模型」からの「お手紙」が印象に残っています。納品書きの下の余白に丸眼鏡キャラの青年が雲の合間を跳ねているイラストの吹き出しに「生まれてきてよかった バンザイ バンダイ この精神で がんばります」とありました。初めて子供心に「企業・メーカー」というものが身近に感じられた瞬間でしたね。後年タミヤさんからもアフターサービスを利用させて頂いた際も同様、実に気の利いた対応をして頂き、製品のみならず後々のサービスまで日本の模型はファンを大切にしてくれる企業姿勢が素晴らしいと実感したわけです。
1970年代後半、日本にF1GPがやって来て、スーパーカーブームもあり、ラジコンも流行した時期、御多分に洩れずタミヤ1/12ポルシェ934を購入し、1980年(高校1年)モーターをRS-540、ニッカド7.2V電池、スポンジタイヤに換えて競技会に出場しました。翌年の秋、北海道では初の「タミヤ グランプリ」が開催された際にエントリーしたラルトF2で、ボディは無改造ながらカラーリングは当時ホンダがエンジンサプライヤーとしてレースに復帰した1980年型ラルト・ホンダ仕様にして「コンクールデレガンス賞」を頂きました。黄色のストライプはロータス79のステッカーから流用、他はステッカーの余白を利用して手描きを貼りました。賞品として、タミヤカラーロング缶6色セットを頂きました。RCレースのほうは下位でしたが、それ以上に嬉しい賞でした。
フォーミュラマシンのようなレーシングカーを作る際には、ドライバー人形は乗せたい派です。競馬で騎手が人馬一体となって駆けるのと同様、ヘルメットのカラーリングもマシンの一部と捉えています。ゆえに近年の複雑化した、ましてやGPごとにデザインが変わるヘルメットには苦手意識があり、昔のシンプルな時代を好みます。また、人形をマシンに合った体格に調整するのも肝要と心得ます。
私がモデルカーズ誌と出会ったのは創刊第2号(1986年1月1日発行)からです。当時は現在のような月刊ではなく不定期刊でした。就職等でブランクはありましたが、後年買い揃えました。本格的に模型制作を再開したのは1997年、東京から藤沢市に移ってからです。それまではコンテストに応募する自信も特に持ち合わせておりませんでしたが、先のクアント誌で知り合った模型仲間の勧めで応募してみました。当時のコンテストは、自分には敷居が高く思えたものでした。まずは東京での勤め人時代に購入しておいたエアブラシ(レトラ5/17)と、塗料とシンナーの割合に慣れる必要がありました。
1985年(20歳)実家の部屋にて
1998年、モデルカーズ誌41号にて読者コンテストデビュー・佳作(ハセガワ1/24 VWタイプIIバンBPサービスカー仕様)
43号コンテスト佳作(ダイヤペット1/40改クラウンJAFサービスカー)
1999年44号コンテスト佳作(ナガノ1/20フェアレディZ432R)
45号コンテスト佳作(シガレットケース改・日産ジュニアトラック)
2000年52号ジウジアーロ特集参加(三共1.32初代ルーチェSS)&同号コンテスト入賞(モノグラム1/24 1941リンカーンコンチネンタルカブリオレ)
春頃、トヨタ鞍ケ池記念館展示ラジオラマ内1/32トヨダG1トラック・クライスラーエアフロー 2台のフィニッシュを担当。未だ経験が少ないうちからイキナリ大きな仕事を頂いてしまい、例えていえばロクに泳げもしないのに海に放り込まれたような感覚でした。実にスパルタンなお仕事でした。
54号コンテスト次点(バンダイ1/20サバンナGSII・カペラGS・コスモAP)
55号コンテスト優勝(シガレットケース改1/24三菱コルト1000 1964日本グランプリ仕様)
2001年57号コンテスト次点( エレール1/16シトロエンDS19カブリオレ)
・・・ここで遂に編集部さまから御声がけを頂き、64号シトロエン特集で巻頭記事に本格的参加となりました。
2002年70号 1970年代1/20国産車特集参加(ニチモ1/20コロナマークII1900SL・ナガノ1/20フェアレディZ432R・バンダイ1/20ホンダクーペ9カスタム・カペラロータリークーペGS・サバンナクーペGSII・コスモAPリミテッド・日産シルビアLSタイプX)
2003年84号センチュリー/プレジデント特集参加(アオシマ1/24改VG20・VG45・三共1/24初代プレジデント)
90号マツダロータリー特集参加(ハセガワ1/24改 ヴァンケルプロトタイプ/コスモスポーツ原型)
92号1/32スケール特集参加(三共1/32マツダファミリアDX・日産411ブルーバードDX・三菱コルト800)
2004年98号ホンダスポーツ特集参加(タミヤ 1/24改スポーツ360・スポーツ500)
2005年107号いすゞベレット特集参加(フジミ1/24改ベレット1600GT・4ドアスポーツ・2ドアスポーツ)
111号トヨタクラウン特集参加(シガレットケース改1/24MS51後期ハードトップSL・オオタキ1/24 MS100ハードトップスーパーサルーン)
115号スカイライン特集参加(フジミ1/24改ハコスカ1500DX・東京マルイ1/24ジャパンターボGT-ES)
2006年119号タクシー特集参加(アオシマ1/24セルシオ個人・ゼロクラウン個人・オオタキ1/24グロリア会社&個人)
123号ホンダ360特集参加(イマイ1/20 N360・バンダイ1/20 TN360・オオタキ1/20 ホンダZ GS)その他ムック本参加。
以降現在に至ります。
昨年はカー・アンド・ドライバー誌に4ヶ月連続で参加しました。中でも印象的な作品は令和への改元記念として制作したフジミ1/30グロッサーメルセデスベンツ770K・昭和天皇御料車です。戦後間もなく巡幸で使用されたランドレー仕様に改造しました。当時の後席資料写真がほとんど存在しないので、ダイキャストミニカーを立体資料として参考にしつつ、幌は想像で作りました。
1984年・19歳の時に普通自動車免許を取得し、初めて乗った車は父の勤務先の同僚の方から御譲り頂いた1973年型な2代目トヨタスプリンター4ドアセダン(TE21)、そして父が長いこと乗っていた3代目カローラバン(TE30V)を共同で乗らせてもらっていました。東京から藤沢に移ってからは、日頃お世話になっております大家のサードカーを、動態保存維持を兼ねて乗らせて頂いております。4代目スバルサンバートラック・3代目カローラFX・プログレを経て、現在は2002年型2代目センチュリーを使わせて頂くまでになりました。おかげさまでアオリ運転に遭遇する事はまずありませんが(笑)、人にもクルマにも優しい運転を心掛けております。5リッターV12のガスイーターなので、無理のない運転をしないと燃費が良くなりません。この車格に慣れてしまうと、クラウンでも狭く思えてしまう程です。
父と共同で乗っていたカローラバン(TE30V)
現在乗っている2代目センチュリー
模型との付き合いも早50年となりましたので、今後の希望としては、とにかく「無いものを作る」、コレに尽きます。2017年に初めてスクラッチで作りました1/24マツダロードペーサーは、今後への良いきっかけとなりました。それまでに他のモデラー氏によるスクラッチ制作記事も読みましたが、ケミカルウッドブロックからの削り出しの方法が自分には取っ付きにくく、色々考えた結果、削り方向の「引き算モデリング」よりも、先ずは内骨格を超えないように守って盛っていく「足し算モデリング」が合っているとの結論を得るに至ったわけです。
1/24 マツダロードペーサーAP (スクラッチビルド)
フジミ1/24改 スカイライン1500ツーリングデラックス
イマイ1/20 マツダファミリアロータリークーペ
ハセガワ1/24改 コスモスポーツ前期型
模型は各自自由に作る素材ではありますが、自分の場合は純然たるスケールモデラーでありたいと常々思っていますので、スクラッチする場合は可能な限り実車に近づきたく、また旧いキットではピンポイント的に修正するほうが全体の良さを引き立てる場合には手を入れ、既に最新の決定版キットが出た車種の場合は旧いままの味わいを引き出すべく、当時感を大切にしてキレイに仕上げるという3つの制作方法を使い分けて行きたいと考えております。
何をどのように作ろうか、とアレコレ妄想している時が一番愉しいですが、コロナ方面が落ち着いてくれて、再び展示会で一台でも多く作品を並べられるよう精進して行きたく存じます。
(執筆者略歴)
坂中 善之
国産旧車を最も得意とするカーモデラー。モデルカーズ誌読者コンテストを経て2001年より巻頭記事に参加。模型と並びベーシストとして音楽も楽しむ。ビートルズファン歴43年。機会がありましたらセッション御一緒しましょう。