モノを集めるコレクター癖の芽生えについて
皆さん、こんにちは(こんばんは)。はじめまして。私は自動車関連の雑誌やWebメディアでエディター/ライターをしている高桑秀典(たかくわひでのり)と申します。
今回、トップバッターを務めた北沢剛司さんからお声がけいただきまして、「モノを集めるコレクター癖の芽生えについて」書かせていただくことになりました。
ちなみに、ここで言う「モノを集める」の「モノ」はミニカーに限ったことではないので、私がいまでも保管している往時の品々(ミニカー以外)もご紹介します。物持ちがいいので、40年以上前のアイテムが家の中にゴロゴロしており、今回その一部を撮影してみました。シンプルに懐かしいと思いますので、是非とも、ご覧になってみてください。
やはり最初のコレクションはトミカ
私は1971年生まれなので、まず初めに集め始めたクルマ系のアイテムはご多分に漏れずトミカでした。改めて説明するまでもなく、トミカは1970年にデビューしたので、正確に記すと幼児の私が自分の意思で購入したモノではなく、両親が買ってくれたトミカがどんどん増えていき、それが集まっていってコレクションになったということになります。ラッキーなことに、まだ30度バンクがあった頃の富士スピードウェイでレースをよく観戦していた父親も無類のクルマ好きだったので、それが幸いし、たくさんのトミカを買ってもらうことができました。
建設機械、空港で働くクルマ、乗用車、レーシングカー、スクーターなどなど、さまざまなトミカがいまでも手元に残っています。1970年にリリースされた最初期のトミカも数台残っていましたが、以前、タカラトミーの社員に資料用としてゼロ円で進呈してしまったので、もう我が家にはありません。あぁ~、もったいないことしたなぁ~。
参考までに記しておくと、トミカは「日本の子どもたちに、もっと身近な国産車のミニカーで遊んでもらいたい」という熱い想いのもと、日本初の手のひらサイズ国産車ダイキャスト製ミニカーとして発売されました。デビューから50年になろうとしている今日でも、小スケールミニカーの定番商品として幅広い層から親しまれており、三世代で楽しめる一大ブランドへと成長しています。
ひたすらスーパーカーに熱中
小学生になってからは、空前のスーパーカーブームが到来したこともあり、トミカ外国車シリーズ内のスーパーカーを題材としたスタイリッシュなアイテムに加え、永大グリップ、トミカダンディ、サクラ、シンセイ・ミニパワーといったスーパーカー関連のミニカーも買ってもらうようになりました。
そして、ひとつひとつが安価だったこともあり、スーパーカー消しゴムをはじめとする各種スーパーカーグッズもたくさんゲットすることができました。2019年の夏を迎えるというタイミングではありますが、40年前に入手したそれらも大量にキープしており、いまでも自動車雑誌やWebメディアで記事を作る際に大いに役立っています。
ちなみに、インターネットなどが存在しなかった時代に全国的なムーブメントとなったスーパーカーブームは、世の中の熱気を原動力とし、子どもたちの周囲にある「ありとあらゆるモノ」をスーパーカーグッズにするという離れ業をやってのけました。本当に、いい時代だったといえます。
私も48歳になり、2児に恵まれましたが、現在中学校1年生の息子のほうは毎日ゲームばかりしています(長女も毎日スマホをイジっていますね)。彼が夢中になっているのは、フォートナイトというマルチプレイヤーゲームです。
先日、息子という実例を前にしながら、往時と現在の子どもたちが「あるモノに熱狂する際の本質」について比較してみたところ、面白い自論に辿り着きました。
それは何かというと、往時に私たちが夢中になったスーパーカーは確かに実在していましたが、なかには街中で見かける機会がまったくないレア車もあり、それらはゲームの中に登場する架空のキャラクターに近い存在だったのだといえます。
いつの時代にも子どもたちはヒーロー的な存在の架空のキャラクターが大好きなので、かつてカリスマ的存在だったスーパーカーに対しても往時の子どもたちは「実在しているけれども、そう簡単に会うことができないモノ」だと思っていたので異常に熱狂したわけです。
現在はスマホさえあれば万事OKですが、スーパーカーがブームになっていた'70年代は実在する物質こそがすべてでした。そのため、スーパーカーグッズ等で物欲を満たすしかなかったといえます。スーパーカーブームが生んだ各種アイテムは自動車文化の副産物(遺産ですかね)なので、今後も大切にしていきたいと思っています。
小学校の高学年でコレクター癖が本格発動
私が低年齢だったこともあり、トミカ、永大グリップ、トミカダンディ、サクラ、シンセイ・ミニパワーは両親主導で購入していきましたが、各種スーパーカーグッズをゲットしていくあたりから徐々に自分の意思で買い集めるようになり、1980年にリリースされた豆ダッシュ/チョロQは完全に自分主導で買いました。
そして、同時期にラジコンにもハマっていたので、タミヤのリジェJS9マトラ、デューンバギー、マイティフロッグ、京商のミスターウィリーなどを買って、毎日のように友人と走らせていました。今回、それらのラジコンたちも捜索してみましたが、残念ながら発見することができませんでした。でも捨てていないので、実家のどこかで眠っているでしょう。
ちなみに、1979年に誕生し、翌年12月に正式発売されたチョロQは記念すべき40周年を迎えます。手のひらサイズの中に「観る、集める、語る、遊ぶ」といった要素がギュっとつまっているチョロQは、これからも独自のデフォルメボディで、ミニカー好き、クルマ好きを楽しませてくれるでしょう。
ラジコンそのものは発見できませんでしたが、ラジコン関連の漫画は見つけることができました。ラジコンロックやラジコン探偵団、懐かしいです。プラモデル(機動戦士ガンダム関連のアイテムも含む)を作ることにも没頭していたので、プラモ狂四郎も読んでいました。
そして、小学校6年生のときの名札と共に牛乳瓶の蓋(いわゆる牛ぶた)も見つけたので、それの写真も撮ってみました。まさか牛ぶたの写真を大人になってから撮るとは思っていなかったので、小学校の高学年でコレクター癖が芽生え、それが現在のエディター/ライターという仕事に直結したことを(今回の撮影によって)再認識することができました。
中学生になってからもクルマのことが大好きなままでしたが、この頃からモーターサイクルにも興味を持つようになりました。モーターサイクルのレース史に詳しい方は憶えていると思いますが、1985年の鈴鹿8耐に「ヤマハTECH21チーム」が参戦しまして、平忠彦選手とケニー・ロバーツ選手が乗ったこの水色のマシンのことが大好きになってしまったわけです。
それで、高校生になり、原付の免許を取ってヤマハの50ccをいろいろ買い、パッソル、DT50、RZ50などを愛用していました。ホンダとスズキも入れたら、最高で11台の原付バイクを愛用していたので、このタイミングでもモノを集めるコレクター癖が悪さをしていたといえるでしょう。
原付バイクを収集した後、イタリア車のアルファロメオに傾倒していきましたが、その話とエディター/ライターになった経緯は後編でお伝えいたします。
【第4戦 カートイワークス グランプリ】高桑秀典 様(後編)に続く